「『大無量寿経』に聞く」―四十八願―④

2018年5月13日 講義概要

講師:赤宗正俊

 前回は第一、二願をいただきました。第一願は「私の国では三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)を無からしめたい」と誓っています。ここに法蔵が建立しようという「国」の総括的な規定があります。その三悪趣を主体的、仏教的に貪欲・瞋恚・愚痴とすると、三悪趣が無いとは「貪欲・瞋恚・愚痴を超える」ということになります。さらに第二願は、三悪趣に帰って三悪趣に堕さないということが願われています。それは三悪趣に帰って菩薩として還相のはたらきをすることが願われているのです。それで第一、二願を通せば、「貪瞋痴そのままに貪瞋痴を超える。それすなわち慈悲である。」という命題が出てくるわけです。今回ははじめにこのことについて尋ねてみたいと思います。

一、「貪瞋痴そのままに貪瞋痴を超える。それすなわち慈悲である。」

 「超える」というとき、私は教員時代に関わりのあった一人の生徒のことを思います。今回のテーマといささか関係あると思いますので、はじめにその生徒の話をしたいと思います。

 その後で、毎田周一先生の「涼風を求めて」(『毎田周一全集』第七巻)という文章を読んで、今回のテーマに関して学んだことを私なりにまとめて報告したいと思います。果たして誤らずいただいているか、心配なきにしもあらずというところです。

「見ることは超えること」

 今から十年前(2008年)、某定時制高校でのことです。全校集会にN君が来ていないので教室に行ってみたら、N君が机に伏して泣いていました。「どうした?」と聞くと、「昔のイジメを憶い出すと泣くしかないんです。」と言いました。そういうときイジメでカッターナイフで切られた古傷が痛み出すということでした。私はそれまでN君の担任を二年間していて、彼が中学時代にイジメを受けたことは知っていましたし、そのことはもう乗りこえたのだと思っていました。しかしそうではなかったのです。それで私はN君にイジメの体験を書いて、生活体験発表会で発表することを提案してみました。それは、乗りこえるための第一歩は事実を客観的に見ることだと思ったからです。

 N君は私の提案をうけて、イジメの体験を文章にし始めました。しかしそれは大変な苦痛を伴う作業だったようで、何日もかかってようやく書き上げました。それは私の想像をこえた体験でした。それを読んで私はイジメが残酷な人権侵害であることをはじめて認識しました。自分の教員としての在り方へのものすごい反省を迫られました。

 そして私はNくんの書いた文章を読んで、よくわからないところもあったのでその点について質問しました。それはN君が「自分の判断ミスだった」とか「そのことを後悔している」と言っているところについてでした。N君との問答を通して、私はその点について彼の見方以外の、言わば客観的・一般的な見方を提案してみました。

 その後N君は母親にその文章を見せて、はじめてイジメの具体的にことを伝えました。そのとき母親は彼の事実関係の見方について、私と同じようなことを言ったそうです。それで彼は事実関係について自分の思い込みがあったということに気づきました。

 彼は生活体験発表会で全校生徒を前に自分のイジメ体験を語りました。彼にしてみたらまたイジメられないかとか心配一杯で恐る恐るだったのですが、彼の心配に反して、定時制の生徒たちは彼を優しく受け入れてくれたのです。これを境にN君はイジメの記憶に身体が動かなくなって泣くこともなく、腕の古傷も痛むことがなくなったそうです。

 N君は他者を通して自分の思い込みを知り、事実を知って、乗りこえることができたのです。自分の思いから解放され、事実を事実として見るということは超えることであるわけです。

私たちの僧伽においても、生活上のいろいろな問題を皆さんの前に表現するところに一つ「超える」ということがあるのではないでしょうか。さらに他の人の意見を通して事実を確認するところにまた一つの「超える」ところがあるのではないでしょうか。

毎田周一先生の『涼風を求めて』を読んで

 現実の自己というものを仏教では五蘊(ごうん)説で語ります。五蘊説というのは、…色→受→想→行→識→色…という円環的な体系です。「色」は身体も含めた物質的な世界を示します。それは「行」が身体的な働きであることを表しています。「受」は受容です。内に保つことであり、やがて保持・持続を意味します。外的・物的世界を内面的に把握するのです。これも「行」の要素になります。「想」は受からくる記憶や想像も含めた思惟(思考)の作用です。これも「行」になくてはならない要素です。「行」は色→受→想の全過程をもって働きかけるのです。その働きかけによって新しい世界が現れてきます。

その認識・識別が「識」です。いわゆる「見る」です。「見る」とは実体的・主観的な私が対象的に見るのではなく、世界が立ち現れるのです。「見」=「現」です。その「識」を原始仏教では眼・耳・鼻・舌・身・意の、「六入」で示します。見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる、の五官による感覚だけでなく、感情やあるいは第六感なども含めた心による識別もこの「見る」に含まれます。何を「見る」かというと、五蘊の最初の「色」を見るのです。そこからまた、色→受→想→行→識→色…と円環的に動いていくのです。

色・受・想・行を「行為的」といい、識を「直観」というならば、色・受・想・行・識の円環的体系は「行為的直観」です。働くことによって見る、見ることによって働くのです。仏教は現実の自己を五蘊、哲学的表現では行為的直観において捉えるのです。行為と直観の転換点に自己を見るのです。

だから自己とは何か固定的な常なるものではないのです。自己とは刻々の「今」にしかないのです。それは刻々に新鮮な「今」です。澄み切った、錆のない、鋭いメスの先のような、未知の世界への突入そのものです。

見ることによって働きかけていくことにより、物事の新たなすがたが現れてきます。すなわち見るのです。その見ることによって働きかけていきます。ここから物が生み出されてきます。これを制作といいます。自己の表現です。

聖人も愚人も、すべて人間は行為的直観をもって生きるしかないのです。

 この現実の自己の在り方から人間の現実界が現れてきます。五蘊説における、色・受・想というのは、色によって受あり、受によって想ありというのですから、因縁です。そして因縁は一人ひとり違うのですから、聖徳太子が言うように「人が違う」のです。「人皆心有り、心各々執(と)れること有り」と言うように、人は各々、その身と相応した世界を荘厳する個物としてそれぞれ世界を表現しているのです。

「違った人」が共に住んでいるのがこの世界です。「人は違う」のですから、それぞれは自分の表現する世界を生きようとします。それは独立欲であり、他に対しては支配欲です。自分は頭を上げて、人には頭を下げさせたいわけです。

 支配欲としてのいのちの欲求が貪欲です。世界は無限ですから貪欲も無限です。どこまでも私の思い通りにならんことを求めます。人との関係において人を物とし道具化します。そのとき自分も物に成り下がって人格を失うのです。

ところで真理は無常ですから、獲得したものが減ったり、無くなったり、奪われたりすることがあります。この逆境において怒りがわきおこってきます。また世界には私と同じく支配欲を生きる個物がたくさんいますから、他の個物との対立・闘争が表面化したとき激しい怒りが燃え上がります。

貪欲を生きるから、貪欲が満たされなくて怒り、苦しむ。貪欲ゆえに怒りを燃え上がらせ、苦しみ、しかも打つ手なし、お手上げとは真理にくらい、智慧のない、無明、無知、すなわち愚痴です。人間存在は貪瞋痴的存在です。

 貪瞋痴を生きる人間のつくる社会の現実相は対立・闘争です。たとえ良好な関係であっても底に対立・闘争というものを潜ませています。さるべき業縁のもよおせば、潜んでいた対立・闘争関係が露わになってきます。 

 貪瞋痴の一塊として対立・闘争関係にあって、怒りをたぎらせ苦しみ、また自己固執・自己主張の殻の中で孤独に魂が凍えているのが人間の現実です。

 さらに「人が違う」のですから、人の心は千差万別です。このときこの雑然とした在り方に耐えられなくて、これを一つにしようという心がはたらきます。そこに「…でなければならぬ」ということが出てくるわけです。この「ねばならぬ」を当為といいます。ここに支配的なものがあります。

 ところが一方、「ねばならぬ」ではなくて、平等に個々が個々であることを尊重する立場があります。

 人を「ねばならぬ」と当為でもって支配しようとすると、自他相互の関係は怒りの渦巻くところとなります。自分は「やりたいようにしたい」と思いながら、他には「ねばならない」と当為を強要すれば、共に怒りを煮えたぎらせます。自在でありたいと願いながら、自分に対しては「私はこうでなければならぬ」と、依然として「ねばならぬ」を引きずり、他に対しても「ねばならぬ」と要求する心の捨てがたく、やっていることは矛盾であり、支離滅裂です。そして「ねばならぬ」の前に恐れおののいて、なぜか知らないけれども不平不満の人生を続けていくわけです。「ねばならない」を破ることができないのは、それによって他を支配しようという欲望を断ち切ることができないからです。

 このように、「ねばならぬ」と自在の間に挟まれて、右往左往、迷い苦しんで、人生の一波一波に翻弄されているのが人間の現実のすがたです。

 人間の現実界は貪瞋痴の世界であって、対立・闘争の世界であり、当為と自在に翻弄される苦悩の世界です。釈尊はこの現実界を智慧の目で徹視されて「一切苦」と言われたのです。

 しかし、人はただ苦悩の中にとどまることに耐えられません。どうかして、これから脱したいと欲するのです。ここにおいて苦悩の解脱ということが人にとっての中心問題となります。だから釈尊は「私は苦と苦からの解放ということだけを語っている」と言われたのでしょう。

 私たちはこの苦悩から逃避しようと厖大なエネルギーを使って様々な方法を試みます。気晴らしや思想や宗教等々、私たちの文化とは苦悩からの逃避への努力が生み出したものと言うことができると思います。そこに多くの理想主義的な行動が試みられます。善であり、道理が通っているといわれることを実践することによって立派な人間として苦悩から脱したいと思うわけです。しかしそれらの試みが成功したことはありません。

 私たちが浄土真宗を学んでいるといっても、教えを聞いて信心を獲て、苦悩を解決していきたいというのであれば、これも理想主義です。世間の欲望と違って清浄なものがあるようにありますが、とどのつまりは欲望です。さらに言えば支配欲です。

 親鸞聖人は比叡山で修行に励んでいる僧たちや、吉水でナマンダブツ、ナマンダブツと一生懸命念仏している同門の人たちに、意識の底に潜む宗教的な我執を見たのです。聖人はその宗教的我執を自分の中にも見たわけです。それが三願転入です。

 善導大師の「二河白道の譬え」に「三定死」というのがあります。旅人の前には水火二河、後ろからは群族・悪獣が迫って来て、「戻るも死」「とどまるも死」「行くも死」という絶望状態に至るわけですが、「三定死」とは、自分の中にも清浄なるものがあると認めて歩んでいたのですが、実は宗教的な我執であったんだということを発見して進めなくなったということでしょう。教えを聞きつつも支配欲は捨て難く、理想主義の道を歩むその果てに、思いもかけない宗教的我執を発見して進めなくなったということでしよう。「ねばならぬ」の前にただ貪瞋痴の一塊と、ただ苦悩の自己を投げ出さざるを得なくなったわけです。

 

では、どのようにして、この苦悩のただ中から解脱の道が開かれてくるのでしようか。それは苦悩の人間界にいる「目覚めた人」(諸仏・善知識)に出あうことによってです。その善知識から教えの言葉を聞くことによってです。

 その教えの言葉は一句につづめれば南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏は「正信偈」では「帰命無量寿如来、南無不可思議光」、「いのち(慈悲)に帰れ、智慧へ来たれ」と呼びかけている言葉です。「帰命無量寿如来」がはじめですから、根源的実在は慈悲なのです。いのちです。究極の真理と言ってもよいです。

 究極の真理は、いつでも、どこでも、誰でもあります。ダイナミックないのちの流れです。ところが私たちは、あたかも一方通行の道路を逆走するかのように、自分勝手な世界を作って、しかも苦悩しているわけです。根源の慈悲はそんな私たちに同苦し同悲して「本来のいのちに帰ってきなさい」と呼びかけているのです。しかしこれは声なき声だから私たちにはわからないのです。この願いにどうしたら私たちが触れることができるか。慈悲は智慧としてはたらきます。「南無不可思議光」です。真理を認識せしめようとするのです。真理を表現している言葉を聞かせようとするのです。言葉になれば私聞くことができるからです。

 では、目覚めた人(善知識)とはどういう存在なのでしょうか。目覚めた人とは、目覚めた人から南無阿弥陀仏を聞いて、貪瞋痴の一塊と頭を下げしめられ懺悔している人です。南無阿弥陀仏を聞いて、頭をガクッと下げしめられて空っぽになった人です。ところがその人から南無阿弥陀仏が流れ出てくるのです。南無阿弥陀仏の伝統とは、頭を下げしめられた人の伝統です。

 目覚めた人といっても特別な人ではありません。私たちと同じ、色・受・想・行・識の行為的直観を生きるだけの人です。行為的直観によって物を作り、世界を表現する人です。しかしそこに南無阿弥陀仏を聞いたということがあるのです。南無阿弥陀仏は、色・受・想・行・識の「想」において行為的直観の中に浸透していきます。そこに真理の認識による行動というものがあるのです。それは信の人です。

 彼はあるがままを受け取る智慧の人です。そしてあるがままを受け取るところには自我の絶対否定があります。ですからそこから出てくる真理認識の行動には絶対否定が含まれています。それが迷った人の無明の闇を破るのです。彼の存在が慈悲となるのです。彼からは蛇口が開いた水道管のように、自分の心境を語る言葉が溢れてきます。彼は倫理的な「ねばならぬ」からも宗教的な「ねばならぬ」からも脱け落ちて自在です。倫理的な窮屈さも宗教的な臭みもなく、みんなと同じく行為的直観を生きるだけの「ただの人」です。飯塚の会通信にNさんが「貴乃花は立派だった。頭を下げたら笑顔になった」と書いていましたが、彼は頭を下げしめられて明るい人です。

 私たちに苦悩の中から解脱の道が開かれてくるのは、目覚めた人によって、伝統されてきた真理を表現する言葉を聞くことによってです。ただその言葉を聞くことのみ必要なことです。そして聞くというのは僧伽において聞くのです。私たちが真理を表現する言葉を聞くには、やはり日常の作業から解放された時間が必要です。絵描きさんがアトリエに入るような時間が必要なのです。さらにそこに共に学ぶ友がいなくてはなりません。よき師よき友との学びの交流を通じて、その言葉は私たちに聞かれ、浸透してくるのです。

 ところで、僧伽において善知識の言葉を通して南無阿弥陀仏を聞くということについて「二河白道の譬え」は大事なことを言っています。旅人は三定死という行き詰まりを体験した時、「すでに道有り」という閃きをもちます。それまで旅人は自分の考えた道、つまりこちらから延ばした道を行こうとしていたのです。そうしたら行き詰ってしまった。しかし三定死で自分の考えがもはや何の力にもならぬとなったとき、向こうからきている道に目覚めたのです。教えがある、ただ聞きさえすればいいのだと頭を下げたのです。

 目覚めた人の教えを通して真理の言葉を聞くとき、その言葉は行為的直観(色・受・想・行・識)の「想」において浸透していきます。そうして私たちは感情の深いところで根源的慈悲に触れるわけです。願に触れるのです。

 根源的慈悲は、勝手な固定的な世界を作って真理に逆行している、そしてそれ故に苦悩している私たちを同苦し同悲したまうのです。その慈悲に私たちが感情の深いところで触れるとき、慈悲によって同苦し同悲されなくてはならない自己の真実相を見るのです。それは貪瞋痴の一塊として苦悩せる自己に他なりません。そこに頭が下げしめられます。懺悔があります。

 自己の真実相を「見る」というけれど、情感的には「見られる」、あるいはそのままに在らしめられるのです。見守られ包まれるのです。

 私たちの迷いは現実の自己に帰ることができないところにあります。しかし自己の正体を捉えてしまったら、そこに迷いはありません。貪瞋痴のあるままに、それにとりつきません。わが貪瞋痴をわがものとしないのです。「どうしようもない」とあるがままに微笑みをもって見守っていく余裕があります。細川先生がよく言っておられた「これが本当の私、南無阿弥陀仏」とはこういうことではないでしょうか。夜晃先生の「あるがままを見つめて(受け取って)念仏申す」とはこういうことではないでしょうか。これは自己安住です。ただ行為的直観をもって刻々の「今」を生きる創造的人生です。

 自らを貪瞋痴の一塊と頭を下げしめられた者は、他に対して「共にこれ凡夫(ただびと)のみ」と融け合います。そこに和らぎがあります。対立がありません。自他に対して「ねばならぬ」と当為をもって縛ることはありません。当為から抜け出して自在です。団歌は「なさねばならぬこともなく、なしてとがあることもなし、絶対自由無碍自在、六字の霊火に燃ゆる身は」と歌っています。

 要は「見る」ということにあります。そこに「超える」ということがあるわけです。貪瞋痴そのままに貪瞋痴を超えるのです。

 さらに、真理の言葉を聞いて、行為的直観を生きる者には、絶対否定が浸透していますから、言葉を換えれば智慧をいただいていますから、その存在に接した人は、その智慧のはたらきをうけて迷いの根源である無明の闇が破られていくのです。無明の闇を破られ解放された人は、その智慧の人に慈悲を感ずるのです。

 貪瞋痴そのままに貪瞋痴をこえる、それすなわち慈悲である、ということを私はこのようにいただいたわけです。

本日は第三願、第四願をいただこうと思います。

第三、四願について

 第三、四願はともに平等ということが誓われています。一つことがらを二面からいっているのです。サンスクリットで「色」(ルーパー)は、「形づくられたもの」ということを意味しますが、この「色」(ルーパー)は「いろ」(顕色)と「形」(形色)という二つの意味があります。第三、四願は、第一、二願をうけて、三悪趣を超えたすがたが「いろ」(第三願)と「形」(第四願)という二面から誓われているのです。

 金子大栄先生や松原祐善先生は、第三、四願の背景にインドにおける人種差別やカースト制などの差別を見ておられます。人種差別やカースト制という差別をこえて平等ならしめたいという願いが第三、四願の背景としてあると言われています。また、安田理深先生は「第三、四願においては、人間の身体性のうえに自己成就ということが表現されてくる」と言われているそうです。

二、第三願―悉皆金色の願

 設我得仏 国中人天 不悉真金色者 不取正覚

(設い我仏を得んに、国中の人天、悉く真金色(しんこんじき)ならずば、正覚を取らじ)

【口語訳】

たとえ私が仏になったとしましても、私の国の人々や神々が悉く真金色でないならば、誓って正覚を取りません(誓って仏になりません)。

第三願は「悉皆金色の願」と呼ばれています。この願名は法然上人によっています。「悉皆」は「ことごとくみな」ということですが、悉皆金色ということは全身にわたって金色ということではなく、国中の人天のすべてが金色であるという意味です。

言葉の意味

 第三願では「国中の人天みなが平等に真金色であることが願われています。しかし願意は「真金色」が何を意味するかがはっきりしなければ明確にはなりません。まず「真金色」の意味を尋ねたいと思います。

 「真金色」という言葉は辞書には載っていませんが、「真金色相」という言葉はあります。「真金色相」とは仏の三十二相の一つです。それは「皮膚がなめらかで黄金のごとくある」相だと書いてありました。すなわち真金色とは、仏の相をあらわすなめらかな黄金のような色だというのです。仏とは覚者、すなわち真理に目覚め、真理と一つになった人ということです。その真理に目覚め、真理と一つになった人の肌の色を真金色で象徴しているのです。

 それで道隠師は、真金色とは「涅槃常住不変の色」と言っています。涅槃常住不変とは究極の真理、いのちの流れと一つになったことだからです。真金色とは真理と一つであることを象徴する色であるということができると思います。

 だから真金色とはいろいろある色の中の一つの色というわけではありません。宮城先生は、『論註』の「荘厳妙色功徳成就」の中で曇鸞大師が様々な金の色をこれでもか、これでもかと十一回比較した後で、やっぱり浄土の光明には及ばない、と釈している文章を引いて、真金色とは光明そのものを表す言葉だと了解されています。あらゆる色を輝かせている光明そのものだといただかれるのです。そうすると、青色が青い光に輝き、白い色が白い光に輝くように、それぞれがその個性のままに輝くということが真金色ということになります。

願意

 第三願では国中の人天のすべてが真金色に輝くことが願われています。それはみんなが同一の色になるということではなく、あらゆるものがその個性のままに個性的に輝くということが願われているのです。青色青光、白色白光です。その輝きは真理と一つになっているところからきています。釈尊が目覚めた真理は縁起、あるいは無常として伝えられていますが、無常の真理と一つになれば、固定は破られ、刻々の瑞々しいいのちを生きます。真金色に輝く精進のすがたです。

 暁烏先生は次のように言われています。

  (第三願は)わしの国の中には血色のいい元気に満ちた人ばかりおる。こういう願いではなかろうか。…願いのない者の生活には力がない。…この元気は願いから出てくるのである。わしの国におる者はすべてこの元気に満ちたものであらしめたいということは、みんな願いに燃える者であらしめたいというのである。

 第三願(第四願も含む)の成就文は次の経文です。

  彼の仏国土は、…その諸々の声聞・菩薩・天・人、智慧高明にして神通洞達せり。みな同じく一類にして形異状無し。…顔貌端正にして超世希有なり。容色微妙にして天に非ず人に非ず。皆自然虚無の身、無極の体を受けたり。                  (1/34)

 宮城先生は次の経文に第三願の成就を見られています。

  青色には青光、白色には白光、玄黄・朱紫の光色も亦然り                       (1/37,38)

三、第四願―無有好醜の願

 設我得仏 国中人天 形色不同 有好醜者 不取正覚

(設い我仏を得んに、国中の人天、形色(ぎょうしき)不同にして好醜有らば、正覚を取らじ)

【口語訳】

たとえ私が仏になったとしましても、私の国の人々や神々が、姿かたちが同じでなく好醜があるとするならば、誓って正覚を取りません(誓って仏になりません)

 第四願は「無有好醜の願」と呼ばれています。

言葉の意味

 「形色不同」の「形色」とは、姿かたちということです。

 「好醜」は客観的な意味での美と醜ということではありません。「好」は「姝好」の意味で「このみ、よしとすべきもの」という意味です。「いいね」ということでしようか。「醜」は醜悪といいますが、「悪むべきもの」きらうものという意味です。これは「ノー」でしょう。だから「好醜」とは自己中心的な執着を含んだ分別ということになります。

願意

 第四願は、国中の人天の姿かたちが同じで美とか醜いとかの差別がないようにしたい、と願っているのですが、それはみんな同じ姿かたちにしようという願いではありません。そもそも美醜というのは二元分別の自己中心的な執われから「いいね」とか「ノー」とか出てくるのです。だから平等な国であるためには、一々の国中の人天がその差別のもとである分別の心を離れるということがなければなりません。その意味では、異訳の『荘厳経』が「分別を遠離し諸根寂静」なることを願っていることが注目されます。

 それで、第四願は国中の人天が姿かたちにおいて平等であることを願っているのですが、すべてのものが同じ姿かたちであることはあり得ません。ですから第四願は、分別を離れ、分別における比較や対立を離れしめることによって平等な国を成就したいと願っているのです。このようにいただけるのではないかと思うのです。

 宮城先生は、『論註』の「荘厳形相功徳成就」の中の文に注目されます。それは、「この世では忍辱の者は身の端正さを得るが、それはその心が身に影響するからである。しかし浄土に生まれたら、瞋りとか忍辱とかの区別はなくて、ひとびとのすがたは平等ですぐれたものになるのである」という意味の文章です。この世では腹を立てた者のみっともない姿と耐え忍ぶ者の美しい姿が同じだというのは不公平ということになりますが、浄土ではそういう分別から離れることができるというのです。なぜそうなるかというと、浄土は本願の国だからです。本願に触れると「共にこれ凡夫(ただびと)のみ」と彼に私を見、私の中に彼を見て融け合うことができます。それが違いに捉われ、違いに縛られることから解放される根本の心でしょう。

 第四願の成就は先の1/34の経文に表されています。

 次回は「六神通の願」をいただきたいと思います。

目次