2018年2月28日 講義概要
講師:赤宗正俊
前回から「四十八願」に入りました。しかしすぐに願文に入る前に、「本願」ということについて考えてみたわけです。
はじめに、「弥陀の誓願不思議」(23/1)というように、本願は「本願―不思議」であること、本願は人間の分別(思議)を超えているということを確かめました。そうして人間分別の心によって本願を思議しようとする根深い自力の執心を知らしめられたわけです。では本願―不思議だから何もわからないのかというと、親鸞聖人が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業をもちける身にてありけるを助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(23/13)と言われるように、真理に背いている顛倒・虚偽の姿を照らし出されるということにおいて本願は感得されるわけです。だから本願というものがどこかにあるのではなくて、本願は、自己否定を実現し、自分勝手な妄念の世界を破って、生き生きとした本来のいのちに帰らしめられるところ、すなわち人間の精神界にとってはたらきとして感ずるところにあるわけです。
次に「本願―大悲心」ということを確かめました。
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり(11/35)
本願は大悲心です。私たちは大悲心ということをともすれば感傷的(センチメンタル)に考えますが、大悲は「無縁の悲」ですから対象というものがない。自他の分別がないのです。衆生の苦悩を自己の苦悩とする同体の慈悲です。自己の根元が自己そのものに対するいたみなのです。
次に「善知識の方便」ということで、私たちにご縁のあった細川先生・大森先生・平野先生・羽田先生の「本願」についての教えをいただきました。そしてそれを一応次のようにまとめてみました。
相対有限の根底にはたらいている絶対無限であり、輪ゴムの譬えのように、本来の自己が本来の自己であろうとする願である。それは呼びかけである。「本来に帰れ」と呼びかけているのである。
本願は外から呼びかけるのではない、内からの呼びかけである。しかし内といっても中ではない。内に超えているのである。内在的超越である。
人間の根源的な古い古い願い、人間なら誰でももっている願いである。人間の本当の願いである。それは人間の根本的な深みとか広さというものをあらわしている。
本願はあってもなくてもよいというものではない。本願への目覚めがないならば、遂に本当の人生の成就はないのである。
そして次に「本願のはたらきを感得する身」ということを考え始めて、夜晃先生の「本願の宗教は絶対否定の宗教である」という言葉を手掛かりに「本願のはたらき」を絶対否定という面から見ていったわけです。さらに、念仏生活における自己否定の具体性を自他の怒りへの身の処し方・怒りへの態度に見ることができるのではないかと考えて、聖徳太子の「十七条憲法」第十条をいただいてみたわけです。
今回は「本願のはたらきを感得する身」の続きとして「宿業の身」ということを考えてみたいと思います。細川先生は『歎異抄講読』第十三章で「私は宿業というものが非常にわかりにくくて長い間理解できなかった。…私は自分がわからないことは人に言わないようにしている。…そして分かったところで言うようにしている。」(P180)と言われています。私の力をこえたテーマで恐れ多い気もしますが、前回予告していましたので、私の学ばせていただいたことだけでも報告させていただこうと思っています。
勉強させていただいて、曽我先生の『歎異抄聴記』は始めから終わりまでいろいろなところで宿業について語られていることがわかりました。法蔵菩薩と宿業ということは切り離せません。「法蔵菩薩とは何か」と尋ねられた先生が、宿業について語られるのは当然といえば当然のことです。
一、本願
「本願のはたらきを感得する身」
▼本願と宿業の身
「宿業」とは、「宿」はむかしむかし、「業」ははたらきですから、「むかしむかしからの行業の積み重ね」、これが宿業という言葉の意味です(『晩年の親鸞』P72)。『歎異抄』第十三章には「さるべき業縁のもよおさばいかなるふるまいもすべし」という言葉がありますが、ここに「業縁」とありますように宿業は縁起の真理に関わる言葉です。私たちの「現実」はこの世界の無限の因縁がはたらいてここにこうしてある「歴史的現実」だということです。善導大師が「凡夫」を「遇縁」(その身の現実は縁による)存在だと言ったのも同じことです。
しかしこのような「宿業」の定義を理知的に理解しても、宿業がわかる、宿業を知るということにはならないのです。それどころか誤解して受け取ってしまうのです。実際、宿業は本来の仏教的意味からはずれて、運命論的に理解されてきました。「親の因果が子に報い」と言うように、何か外からの力によって現在の情況が定められており、もはや私にはどうしようもない宿命であり、暗い暗いものと思われてきました。そのことは今もかわっていないと思います。例えば『広辞苑』は「現世に応報を招く原因となった前世の善悪の行為」といっています。これは運命論と言われても仕方ないような表現だと思います。
浄土真宗における運命論的な教えの例は中村久子さんの言葉にあらわれています。中村久子さんは幼い時に突発性脱疽に罹り両手両足を切断され、見世物小屋で裁縫のなどを演じておられた方です。この方に浄土真宗の僧侶が「あなたがこのようになったのも前世の宿業だ。宿業とあきらめて、念仏して来世で浄土に生まれさせていただくのだ」というようなことを言ったのだと思いますが、それに対して中村さんは次のように言われます。
いかなる立派な地位や肩書やバックがあっても、あなたは前世の業だから、と高い所から言い放つことは、他宗は知らず、親鸞さまのみ教えからは決してこんな思い上がったことは言われないのではないでしょうか。無学なために、もちろん、真宗の高い高い教学を全然存じません。けれども、あきらめよと言われて、手足のない自分をすなおに、ハイ、そうですか、とあきらめ切れるものか切れないものか、まずおえらい方々から手足を切って体験を味わって頂いたら―と私は思います。その悲しみと苦しみはどれほどのものか―。六十年を手足なくして過ごした私ですが、決してあきらめ切っているのではございません。あきらめ切れぬ自分の宿業の深さを、慈光に照らして頂き、お念仏によってどうにもならぬ“自分”をみせて頂くのみなのです。
では、どうして宿業の定義を理知的に理解しても宿業がわかったことにならないのでしょうか。あるいはどうして誤解するのでしょうか。それは、宿業を知るというところは絶対否定があるからです。本願念仏による絶対否定即絶対肯定なくして宿業を知るということはないからです。絶対否定を媒介として「宿業を知らしていただく」ということはあるのです。
したがって宿業を知るということは、否定されるべき自己への目覚め(自覚)と一つことであるわけです。
では、否定されるべきものとは何でしょうか。それは、「我」という主観を立てて「我」の自由意思によって「我がために生きん」とする在り方への依存あるいは隷属です。仏教の言葉では、自力のはからいのみに生きようとすることです。これはいのちの本来に反した顛倒・虚偽の姿です。これが否定されるべきことなのです。
問題点をもっと正確にすると、「我」という主観を立てて「我」の自由意思によって「我がために生きん」とする在り方、すなわち自力のはからいは、いのちから必然的に出てきたものであり人間のもつ重要な一面ですから、このこと自体は正しいとか正しくないとかいうことを超えているのです。問題はこの在り方に依存していること、隷属していることにあります。自力のはからいのみということが問題なのです。
では、否定するもの、すなわち目覚めさせるもの、照らし出すものとは何でしょうか。それは本願・仏智です。
先に言ったように、宿業を知るということは、否定されるべき自己への目覚め(自覚)と一つことです。だから、否定されるべく照らし出された「自己の姿への目覚め(自覚)」と「宿業を知る」ということは同一事態の二面なのです。だから宿業ついて語られるときにはこの二つのことは対のように語られてきます。といっても、自覚的には仏智によって照らし出された自己の姿への目覚め、すなわち「機の深信」におさまるわけです。つまり救われない自己と目覚めることが救われることなのです。
それで以下、自力のはからいに隷属しているということへの目覚めと宿業を知るという、同一事態の二面について、重要ないくつかの点について述べたいと思います。同一事態の二面といっても語るときには次第がありますから、述べるのは自力のはからい、宿業の順になるかと思います。
▼心(思い・はからい)と身(歴史的身体)
自力のはからいというのは、「我」という主観の意思すなわち「心」が思い・はからっているわけですから、言わば「心」が自我を荷っているわけです。そしてこのとき身は生物学的身体として私の私有物です。心は自らの理性の力、私の自由意思にもとづいて私の欲することをなすことができると考えるわけです。
ところが宿業は「身」が荷うのです。ですから「宿業の身」というわけです。宿業は身に即して知るわけです。身はいつか・どこか・誰かの身として、私にまでなってきた「歴史的身体」です。身は公のものなのです。生かされて、そして現に生きているのです。
宿業とか縁起ということは、もちろん自力的に私の心によって考えることもできます。人に説明することもできます。しかしそのときそれは一般的な一つの知識に過ぎず、私を転回させる智慧にはなりません。仏法はこのわが身のついて聞くのです。宿業・縁起といっても「わが身が宿業」、「わが身が縁起」と目覚め、転回することがなければ、それは仏法を聞いたのでも何でもないのです。単なる一学説、一知識に過ぎないのです。「わが身が縁起だ」というのが宿業ということ。本願のはたらきに任せるのです。
▼善・悪は宿業である
「自力」とは、親鸞聖人が『唯信鈔文意』(20/6)で言われるように、①身をよしと思う心、②人をよしあしと思う心、③悪しき心をさがしくかえりみる心、です。このように「よしあし」すなわち善悪ということを言うわけです。善悪は私たちの生活に大きな影響を与えています。というより、善悪が私たちの生活を規定していると言ってもよいかと思います。
自力のはからいは、善悪は人間の自由意思によって何とでもできると思っているわけです。私たちは生まれながらに与えられた理性によって自分の行為を決定する自由をもっており、善をなそうと思えば善をなし得る、悪を止めようと思えば悪を止めることができると思っているわけです。
私たちが善悪に捉われるのは、善いことをしたら善い結果が得られる、悪いことをすれば悪い報いを受ける、だから善いことをし、悪いことを止めて幸せになろうと考えるからです。この考え方を罪福信といいます。罪福信が私たちの行動原理となっているわけです。
ところが、「わが欲するところの善はこれをなさず、反って欲せぬところの悪はこれをなすなり…ああ、われ悩める人なるかな」(ロマ書第七章)というように、私たちの人間理性は責任をもった実践力をもたないのです。それどころか、人間理性は自分の悪はこれを裁き、自己を痛めつけるのです。丸ごとのいのちとして自己を愛することができないのです。いのち全体に対する責任能力がないのです。だから自由意思といっても相対的自由にしか過ぎません。最もわかりやすいのは「死」の問題です。「人間は死ぬものだ」と理解しても、理性は責任をもって死にゆかしめる力はもたないのです。
だからこの生き方は、自分ではどうしようもない事態に陥ると、「これは外からの力によってこうなるように定められているのだ」と運命論であきらめるよりないのです。あるいは、神や仏にすがったり、先祖の祟りだとお祓いをしたり、まじないをしたりします。迷信・邪教に惑わされるわけです。
一方、宿業においては、善悪はすべて宿業と知らされるのです。そして善悪はすべて宿業と知らしていただくと、宿業に反抗せず、宿業に随順していくのです。いや、宿業に随順してゆき得るのです。宿業にまかせることができるのです。そうすると、善を誇らず、悪を恐れず、宿業の結果を素直に謙虚に受け容れ、念仏して進んでいくわけです。ですから、善悪はすべて宿業と知らしていただくと、善悪に捉われ惑わされることがありませんから、たとえ貪欲・瞋恚の煩悩が起こっても、起こるに任せてやがて消滅していくわけです。自力のはからいも、いのちの必然であってみれば、これが出てくることはどうすることもできません。どうすることもできないことは、どうする必要もないのです。藤村さんの「また鬼が出ました。南無阿弥陀仏」です。明るい世界です。
宿業を知らしていただけば、「与えられたものは選んだものだ」と、責任をもって起ち上がります。絶対自由です。宿業の身は自己への完全な愛と責任をもって自己を荷なっていくのです。
▼「機の深信」
宿業を知らしていただくというところには絶対否定があります。機法二種深信というのは、自力一切を否定するために機の深信をたてるわけです。出離(迷いを離れること)はひとえに他力にあります。
曽我先生は「機の深信は宿業の自覚である」「機の深信というのは法蔵菩薩の自覚である」(『選集』第六巻P155)と言われています。
注意しなければいけないのは、親鸞聖人は機の深信を命令形の言葉としていただかれていることです。つまり私が私の力によって深信するのではないのです。例えば聖人は『愚禿鈔』では「一つには決定して『自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁あることなし』と深信すべし」(東の聖典P439)と命令形の言葉としていただかれています。また『歎異抄』でも「『自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没み常に流転して、出離の縁あることなき身と知れ』という金言」(23/13)というように命令形の表現になっています。
次に「機の深信」の文にそってみていくと、「自身」すなわちこの歴史的身は「現にこれ…凡夫」であるといいます。善導は「凡夫」を遇縁存在、縁によって定まる身、『歎異抄』の言葉では「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし」という存在だと押さえられました。そしてその凡夫とは、「生死」、すなわち生まれて生きて死んでいく存在です。そして善導は「現にこれ…生死の凡夫」である「自身」の実感を「罪悪」という言葉で表現されるわけです。
「悪」とは貪瞋痴の一塊として自己中心的に他に向かう在り方を凝視された言葉でしょう。「罪」については、私たちは普通、罰の感覚で考えています。例えば『観経』では韋提希が「私はむかし何の罪があってこんな悪い子を産んだのでしょう」と言いますが、これは「どうしてこんな罰を受けなくてはならないのか」という感覚でしょう。しかし罪とは罰の感覚ではなくて、責任の感覚なのです。今生きているこの身の事実を受け止め荷なっていこうという責任の意識です。ですから、本当は罪の自覚において軽々と生きていくことができるわけです。
▼本願と感応する
自力のはからいは人間の理性をたのみ、仏智疑惑ですから、仏を拒絶する心です。本願と感応しない心です。
宿業を知らしていただくことは「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁あることなし」と、長い長い私の迷いの歴史を感ずる。そしてそこに私の迷いを自己の痛みとし、私と迷いの旅路を共にしながら、永遠の志願をもち続けられた法蔵菩薩を感ずるわけです。曽我先生は「法蔵菩薩は昔話ではない。自分の肉体にひしひしと法蔵菩薩を感覚する。これが宿業の自覚である。」と言われています。そして晩年には「私たちは如来のおつむりの上を歩いているのですから、大切に生きなくてはなりませんね」という言葉を残されています。
宿業を知らせていただくということは本願と感応しているわけです。
▼万物一体
万物一体とは清沢満之先生の言葉です。自力のはからいは、分別によって自他を分け、細川先生がドングリで譬えられたように自我の殻の中に入っています。他は私の欲が満たされるための道具・ものになります。そして他をものにするとき、私もものになっているのです。自と他は通じ合うことなく、私は孤独です。これはいのちの一如に背いていますから、無意識のうちに満たされないものを抱えています。
一方、宿業を知らしめられるところには「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁あることなし」という懺悔があります。
ところで普賢菩薩の行願の中には「懺悔業障(業障を懺悔する)」ということがあるのです。普賢菩薩は遊諸仏国・供養諸仏・開化衆生の智慧と慈悲の菩薩です。この菩薩になぜ「懺悔業障」ということがあるのでしょうか。夜晃先生はこのことを問題にしておられます。そして先生は「普賢菩薩は慈悲によって一切衆生の運命を荷なう。それは一切衆生の業苦の相を自己において見ることによって一切衆生の内的運命を荷うのだ」と言っておられます(『全集』第十七巻P88取意)。
宿業ということには懺悔があるから、悪人を見ればそこに自分の姿を感ずるし、善人を見ればそこに何か自分の妄想の姿を見て、すべてを自己の内に包むわけです。他と融け合うものがあるわけです。
▼大事に処して余裕あり
自力のはからいは、理性で「これは善、これは悪」と考えて、善をなして悪を止めると考えていますが、突発的に事件が起こると、私たちの理性の判断はもはや何の力もありません。細川先生が「十九願・二十願の人は念仏申すべきときに南無阿弥陀仏の南も出てこない」と言われていましたが、事件の最中にはただうろたえるばかりで、事件が過ぎてしまってからあきらめをつけるしかないわけです。
しかし念仏の智慧によって宿業を知らしてもらえば、突発的な事件が起こっても何かしら余裕があるのです。普段、お念仏の教えを聴聞していれば、「罪悪生死の凡夫」と知らせてもらっていますから、突発的な大事件が起こってきても、念仏する余裕があるわけです。細川先生は「十八願の人は念仏申すべきときに念仏になる」と言われていました。
▼現在安住・未来奮励
自力のはからいには自己のすべてを荷なう責任能力がありません。だからいつも現状不満です。現状不満だから未来に何かを期待し妄想をするわけです。いつも「今」を取り落とし、未来を妄想する。これを流転というわけです。
宿業を知る身は法蔵菩薩と共なる責任能力のある主体ですから、現在に安住し、未来に向かっては奮励主義です。そして法蔵菩薩の願と感応しますから、法蔵菩薩が師・世自在王仏から打ち込まれた「至心精進に道を求めて止まざるべし」との法蔵魂を生きます。求道者として刻々の瑞々しいいのちを生き切ります。そして人生を完結するのです。夜晃先生もそうでしたし、細川先生もそうでした。本願に生きた人はみな法蔵魂を生きたわけです。
▼「宿業を知る身の絶対自由」に関する表現
最後に「宿業を知る身の絶対自由」に関する清沢先生、夜晃先生、細川先生の言葉をいただいてみたいと思います。
①清沢満之先生 「絶対他力の大道」
とはぞや、これのなり。
自己とは他なし、のにしてににこのにせるものちこれなり。
それにす、にのことうるにらず。かつうるにらず、にやこれよりなるにおいておや。なり。んずべし、のににすべきものあらんや。これをうるともこれをにすとも、はこれをともするわざるなり。はろのにせるものをしまんかな。
②住岡夜晃先生 『難思録』
宿業を知ることによって本願力に乗托し、絶対自由の世界に内転する。(P47)
ありのままを受け取って念仏申す。(P132)
③細川巌先生 『晩年の親鸞』
「これが私の宿業であります」ということばは常に「道光明朗超絶せり」という世界から出てくる明るいことばである。(P81)
以上「宿業の身」ということについて申してまいりました。残りの時間では、四十八願全体に関して「四十八願のカテゴリー」ということと、親鸞聖人の四十八願観について簡単に述べたいと思います。
二、四十八願のカテゴリーについて
四十八願のカテゴリーについて述べますと、四十八願は、学者の先生たちによっていくつかの種類に分類して理解するということが行われてきました。その中で「なるほど、そうだ」と受け入れられてきたのが中国の浄影寺の慧遠(AD523-592)によるカテゴリーです。彼によると四十八願は次の三つのグループに分類されます。
親鸞聖人は『愚禿鈔』に法蔵菩薩の選択として「選択本願・選択浄土・選択摂生・選択証果」(14/3)をあげておられます。選択証果というのが「摂法身の願」、選択浄土というのが「摂浄土の願」、選択摂生というのが「摂衆生の願」に当たりますから、聖人も慧遠の四十八願のカテゴリーについては異論はなかったのではないかと思われます。
三十四願以降の浄土の外の衆生に関する願には「我が名字を聞きて」という言葉がありますが、これからわかるように名号は浄土の中ではなくて、浄土の外の衆生を導くための方便なのです。
三、親鸞聖人の真仮八願
最後に親鸞聖人の四十八願観をうかがってみますと、親鸞聖人は四十八願の中で十一、十二、十三、十七、十八、十九、二十、二十二願の八願を特に重要な願と考えられています。それはこれらの願によって『教行信証』を構成されていることによってわかります。
顕浄土真実教文類 ―教巻 ―『大無量寿経』
顕浄土真実行文類 ―行巻 ―十七願
顕浄土真実信文類 ―信巻 ―十八願
顕浄土真実証文類 ―証巻 ―十一願、二十二願
顕浄土真仏土文類 ―真仏土巻―十二願、十三願
顕浄土方便化身土文類―化身土巻―十九願、二十願
この八願のうち十一、十二、十三、十七、十八願を「真実五願」といいます。そしてこの五願に、十一願と相まって証に関する願である二十二願(還相回向の願)と、方便の願十九、二十願を加えて真仮八願といいます。さらに親鸞聖人は十一、十七、十八願を「選択本願」と呼ばれ、十二、十三、十七願を「大悲の願」と呼ばれています。
選択本願―十一、十七、十八願(衆生救済のための三願)
選択本願といえば、私たちは普通十八願だと考えるわけですが、親鸞聖人によれば選択本願は十一、十七、十八願です(『往相回向還相回向文類』18/1)。この三願は、下巻の冒頭に成就文が出てくる「衆生救済のための三願」です。今、簡単にその内容を言えば、
【十七願】…この願で法蔵は、十方諸仏が法蔵が完成する名号を称えてほしいと願います。究極の真理の「声なき声」が「声ある声」になることを願うのです。具体的には、名号を体現している十方諸仏(善知識)の存在と、その教言が歴史上に実現することを願うのです。譬えて言えば、法蔵が完成するところの功徳を内容とする名号という妙薬が実現することを願うのです。
【十八願】…この願では、法蔵は、衆生が諸仏が称えている名号を聞くだけで、すぐに目覚め(信心)を体験してほしいと願うのです。誰にでもできる「聞く」というシンプルな受容方法で全衆生を救いたいというのが法蔵の願いです。十八願文には「聞」という字はありませんが、「聞名」という意味があることを言うために、聖人は、信巻では『大無量寿経』の異訳の経典の文や成就文を引かれています(12/56-57)
【十一願】…この願では、衆生が正定聚の位(必ず仏になることが約束されている位)につき、必ず仏となる(人生が完結する)ことが願われています。
大悲の願
『大無量寿経』では、四十八願を述べ終わってからさらに重ねて法蔵にとっての中心願が偈(歌)として歌いあげられます。それは十七願(諸仏称名の願)であり、十二願(光明無量の願)・十三願(寿命無量の願)です。十七願は名号が衆生にとどけられることを願い、十二願・十三願はその名号の中身である功徳(無限の智慧・無限の慈悲)の成就が願われています。(「重誓偈」の三願については違う説もあります。それについては「重誓偈」をいただくときに述べたいと思います。)親鸞聖人は十二、十三、十七願の三願を「大悲の願」と呼ばれています(12/6,12/136)。
次回から四十八願の願文をいただいていきたいと思います。