「『大無量寿経』に聞く」―四十八願―①

2018年1月14日 講義概要

講師:赤宗正俊

 今回からいよいよ「四十八願」に入ります。親鸞聖人は「如来の本願を説くを経の宗致と為す」(12/3)「大無量寿経言というは四十八願を説きたまえる経なり」(17/1)と言われています。ですから親鸞聖人によりますと、四十八願は『大無量寿経』の宗致(中心テーマ)であるわけです。

 四十八願は「本願」といわれます。直ちに願文に入る前に今回は「本願」ということについて考えてみたいと思います。

 

一、本願

本願―不思議

 本願について考えるというとき、私たちは自然に「本願とは何か」という問いをおこします。「本願とは何か」と問うとき、私たちは普通、本願というものを向こうにおいて、即ち対象的に本願とはどういうものかと考えます。「私」という主観を立てて対象的に有るとか無いとか、内とか外とか、私にとってどんなものかとか考えるわけです。これは人間の二元分別の心に立って本願を思議している(おもいはからっている)わけです。

 このとき、私たちは往々にして無意識のうちに仏法を利用する立場に立っているということがあります。「私」は大海の一波一波に浮きつ沈みつしているような、縁次第で一喜一憂し、優越感・劣等感に翻弄される、まことに不安定な小さな不確かな存在です。だから私たちは「弥陀の本願」というとき、弥陀の本願によってその不安定な「私」が安定した私になる、それが「助かる」ということだと考えるわけです。例えばガンを宣告されてもびくともしない私になるのだと思うわけです。

 ところが「総序」は「難思の弘誓」(12/1)といい、『歎異抄』は「弥陀の誓願不思議」(23/1)といいます。本願―不思議なのです。思議することは不可なのです。

 であるのに、「弥陀の誓願不思議」という言葉を何度も何度も口にしながら、私は「本願とは何か」という問いをおこして本願を人間分別の心によってずっと思議してきました。そして今また思議しようとしていたことに、実に根深い自力の執心を知らしめられます。

 本願―不思議ということは、本願は人間の分別(思議)を超えているのです。それでは何もわからないのかというと、親鸞聖人が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(23/13)と語られているように、感得するわけです。それは、「私」中心の自分勝手な固定した世界をつくっている、無常の真理に背いている顛倒・虚偽の姿を照らし出されることにおいて感得されているわけです。

 ですから本願というものがどこかにあるのではありません。人間の精神界にとってはたらきとして感ずるところにあるわけです。自己否定を実現し、自分勝手な妄念の世界を破って、生き生きとした本来のいのちに帰らしめられるところにあるわけです。

本願―大悲心…真実の愛

 また、「正像末和讃」(11/35)に、

如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして

回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり  

という和讃がありますが、本願は大悲心なのです。真実の愛です。この和讃で聖人は、「如来が本願を建ててくださったおこころをうかがってみれば、苦悩しかない私たちをおさめとって捨てないために、如来の全体を回向することにいのちをかけてくださって、大悲心を成就されたのである」と感銘を歌っておられます。このように本願は大悲心であるわけです。

しかし私たちは大悲心ということをともすれば感傷的に考えます。そして愛するものと愛されるものという二つがあって、ほとんどの場合「自分が愛される」という方向で考えます。上から下への愛です。例えばお寺からもらったカレンダーの法語の「むずかる子(わたし)を抱いて離さぬ親(アミダさま)」というように、優しいお母さんが子どもを抱き取るというようなモデルで考えるわけです。

ところで大悲(無縁の悲)は、小悲(衆生縁の悲)・中悲(法縁の悲)に対しています。衆生縁・法縁・無縁の「縁」とは、私たちが「いいご縁でした」というような意味ではなくて、「対象」ということです。だから小悲は親子や友人などを対象とする慈悲です。中悲は法を対象とする慈悲。真理の法を体験した人が迷っている衆生を悲しんで法を平等に施すことです。小悲と中悲の慈悲には慈悲する人と慈悲される人という二元的関係があります。

ところが大悲は無縁ですから対象というものがないのです。あるものからあるものへの愛ではなくて、自他の分別がないのです。衆生の苦悩を自己の苦悩とする同体の慈悲です。自己の根元が自己に対してなす愛です。自己そのものに対するいたみです。本来の自己に帰れというよびかけなのです。

善知識の方便

 先に、本願は人間の理知・分別で思議することできない、人間の理知・分別を超えていると言いました。「離言」すなわち言葉を超えているのです。

ところが私たちが生まれてこのかた親や学校や社会から教えられてきたのは「立派な人間になりなさい、頑張りなさい」という理知・分別の向上の世界ばかりです。私たちは人間の理知・分別の力をたのみ、自分なりの価値観で作り上げた固定した世界に生きています。そうして苦悩しているわけです。それは目覚めた人から見れば顛倒しているわけです。

そんな私たちに同悲・同苦して、釈尊をはじめとする目覚めた方々が法を説いてくださったのです。釈尊ははじめ「説いてもわからないだろう」と説法を躊躇されました。そのように私たちにその教えは難信なのです。なぜなら理知・分別を超えた世界の教えを理知・分別で聞くからです。けれども善知識は智慧の存在であり、それゆえに慈悲の人です。言葉を超えた本願を言葉で表現しようとしてくださったわけです。わからないという顔をしてボーと聞いている私に、先生は本願を念じて法を説き続けられたわけです。

それでは、私たちにご縁のあった先生方は本願ということをどのように表現してくださったでしょうか。


【細川巌先生『歎異抄講読』第一章について】

  本願を説くものが『大無量寿経』で、これには四十八願というものがあって、大いなるものが我らの世界にはたらきかけてくるそのはたらきを四十八願として表す。願とは何かというと、それは願いをもって呼びかけるものである。どういう願いかというと、人生つまり相対界に生きているいのち短き我らに対して、絶対界からそれを自己として抱いていく。つまり大いなる世界が小さな世界を抱いて、その小さな世界を自己の世界とするときにあらわれてくるもの、それを願という。私どもはそんな世界などいらない、人生は人生だけで成り立つではないかと思うけれども、如来の本願というものがなかったならば人生は成り立たない。               (P4)

  本願は私にかけられている本来の願いをいう。ここにヤシの実があるとする。このヤシの実が波の間をプカプカ浮かんでいる。ヤシの実は中に胚芽をもっています。ヤシの身にとって大事な問題は大地が与えられるということである。陸地や島にたどりついて大地を得たなら、そこで太陽の光や水の力によって発芽する。そしてヤシの木になる。これがヤシの本願である。ヤシにとっての本来の願いである。大自然の力すなわち光はさんさんと照り、ヤシが発芽するのを見守っており願っている。そこに大きなものの願いがある。(中略)願いというのは両面にあるのである。ヤシの方の側は衆生の願であり、大きなものを仏の願いという。(中略)大きなもの、それを絶対といい、小さなものを相対という。大きな絶対というものは小さなものの中に内在する。大きなものの願いが小さなものの願いとして内在する。    (P21)

【大森忍先生『歎異抄に聞く』P71】

  如来は外からの呼びかけじゃないんだ、如来は内から私を招喚する。内いうたら何かというと、中ということじゃないですぜ。…存在の根底ということ。それで(夜晃)先生の言葉の中に「内観の一道彼岸に通ず」という言葉がありますのは、如来は内から招喚する。…これが一番厳しい真実のはたらきだと思います。外から呼ぶということになりましたら、私たちは平等にこの呼びかけを聞くということはできないでありましょうが、人間の存在根拠という、最も深い人間の内面から呼びかけるということになりましたら、それは平等に聞くことができる。これは皆同じように聞くことができる。

【平野修先生選集第十四巻P90】

  誓願とか本願とか言われているものがらは何について言われているかと申しますと、…法というものの性質をあらわしたものがこの「願」という表現なのです。…誓願とか本願というのは、輪ゴムで譬えますとあの輪ゴムをいくらねじ曲げても放すとぱっと元に戻りますね。あれが輪ゴムの性質です。輪ゴムという法の性質です。それと同じように、弥陀の誓願といわれていますものは、われわれがどれほど私を高く掲げ、私を大きく見せたとしてもそれは畢竟じて嘘である。嘘をどれほど固めても真実にならない。嘘を真実に戻すはたらきですね。それが法と言われます。法のはたらきです。それがまるで意志があるかのようにはたらくところから、願という字がつけられたのです。

【羽田信生先生「親鸞の『大無量寿経』P326-327】

本願というのは「人間の本当の願い」という意味なのです。…これは原語で見てみればもっとよく解ります。サンスクリット語で「本願」を「プールバ・プラニダーナ」と言います。…プラニダーナは「願い」という意味です。プールバというのは「古い」という意味です「昔」という意味です。ですから、「古い願い」、「昔の願い」ということです。…「人間が人間に成った時の願い」ということなのです。…本当の人間に成りたい、人間としての生を全うしたい、そういう願いです。根源的な古い古い願いです。…人間なら誰でも持っている願いです。有意義な意味のある人生を送りたいという願いです。人間としての生を成就したいという願いです。こういう願いが「本願」と呼ばれているのです。

  でも人間の生を成就したい願いと言っても抽象的で、「それはどういう願いですか」という質問が当然出てきます。ですから人間の本願、最も根源的な願いは何かといったら、僕は「無限なる精進への願い」だと答えます。…私たちは人生の中でいろいろなことを望みますけれども、本当の願いとは全身全霊を以て真理を求めるとか、人生の意味を求めるとか、そういうことを願うことではないですか。…本当の求道精進の生活を送りたいという願いです。この精進に人生を完全燃焼していきたいという願い、これが人間の一番深い願いではないですか。

  人間の中に隠れているものがあるのです。細川巌先生はしばしば人間をドングリにたとえてお話をされます。ドングリにはその中に芽を出したいという願いがある。けれどもどんなに優れたドングリでも、自分の力だけで芽を出すドングリはないでしょう。水とか湿度とか日光とか熱とか、そういう縁がなかったなら芽は出ないでしょう。それによって殻が破られて中から芽が出てくるのです。

  ですから人間には外側の殻の願いと内の真の願いがあるのですが、この内の真の願いを本願と言うのです。殻の願いは欲の願いです。…しかし人間はその欲の願いだけで、本当の人生の満足は達成できないのです。何かを身に付けたい、何かに成りたいとかということではなく、もっと人間の中にある深い願いがあるはずです。私は真の自己を実現したいとか、本当に充実したいのちを生きたいという願いがあるはずです。これが本願です。この願いが出てこない限りは、本当の人生の成就ということはないのです。

 これら、私たちにご縁のあった先生方の教えを(本来無理なことですが)一応まとめてみますと、本願とは、

  相対有限の根底にはたらいている絶対無限であり、輪ゴムの譬えのように、本来の自己が本来の自己であろうとする願である。それは呼びかけである。「本来に帰れ」と呼びかけているのである。

  本願は外から呼びかけるのではない、内からの呼びかけである。しかし内といっても中ではない。内に超えているのである。内在的超越である。

  人間の根源的な古い古い願い、人間なら誰でももっている願いである。人間の本当の願いである。それは人間の根本的な深みとか広さというものをあらわしている。

  本願はあってもなくてもよいというものではない。本願への目覚めがないならば、遂に本当の人生の成就はないのである。

本願のはたらきを感得する身

 先に、本願は理知をもって対象的にわかるものではない、感得するものである、と言いました。それでは何が感得するのでしょうか。それは「身」です。

善導大師の二種深信は「自は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁有ること無し」という機の深信が、即「…彼の願力に乗じて定んで往生を得」という法の深信だと言っています。また、聖人は、源信和讃で「煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわがをてらすなり」(11/30)と歌ってあります。また『歎異抄』が伝えるところでは「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業をもちけるにてありけるを助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(23/13)と語っておられます。

 ですから、本願を感得するのは「心」ではなくて「身」なのです。それは伝統的な言葉では「宿業の身」です。

  

・本願のはたらき…絶対否定

 今、「本願のはたらきを感得する身」と言いましたが、はたらきとは、はたらいてそこに何か変化があるからはたらきというわけです。何も変化がないなら、はたらいたとは言いません。では、「本願のはたらき」とはどんなはたらきでしょうか。夜晃先生は「本願の宗教は絶対否定の宗教である」と言われました。

 絶対否定ということは、私たちが自己を肯定している存在だから、絶対否定というわけです。自己を肯定するものが人間です。自己肯定とは仏教の言葉では「自力」といいます。そして自力とは何かというと、親鸞聖人が『唯信鈔文意』(20/6)で言われるように、①身をよしと思う心、②人をよしあしと思う心、③悪しき心をさがしくかえりみる心、です。聖人はこれらの心をすてて名号を信楽すると言われています。聖人は、自力の心はすたらないものだ、こういう私がお目当ての仏さまだなどといってすわりこめ、とは言っておられないのです。このことはわが身において本当に問題にされなくてはならないことだと思います。

 「身をよしと思う」。まあまあ調子がよくて心に余裕のあるときには「私は悪人です」とか言っていますが、許すことができないことを他人が言ったりしたりすると、私たちの心のメーターの針は「わが身はよし」というところをピタっと指します。夫婦の間でも大きな問題が起こってくると、心の距離は恐ろしく広がって、「僕が悪かった」などとは言えなくなります。「わが身はよし」というのが私たちの生活原理です。

「ひとをよしあしと思う心」。私たちは善悪で他人を裁く閻魔の心を生きています。閻魔ばかりでなく、責める鬼や、責められる罪人にもなります。地獄の心です。その善悪もすべての因縁を知っての上での善悪ならばまだしも、私たちはすべての因縁を知っているわけではありません。しかも根っこには「私にとって」というのがどんとありますから、とどのつまりは「私にとって」の善悪なのです。だから「好かん奴だ」と思っていた人でも、その人が私によくしてくれるようになると「そう悪い人でもないようだ」となるわけです。

「悪しき心をさがしくかえりみる」。これは自分が閻魔になって裁き、自分が鬼になって責め、自分が罪人として責められているわけです。これも地獄の心です。これは一見健気な心のようですが、根底では賢げに自己批判をしている自分を肯定しているのです。

これらの自力の心は「我」の心です。夜晃先生は「池の氷は表に張るが、心の氷は底に張る」と言われています。私たちの冷たい氷の心は底に張っているから見えないのです。

このように自己肯定の存在が私たちです。そしてそこからよろずの悪が出てくるわけです。暗いというのも孤立するというのもみんなそこからです。殻の中に入るからです。

それでも自己否定ということが分別の影を帯びて私たちにあらわれることがあります。それを自己反省といいます。自分が悪かったということに気がついて反省するわけです。悪いということに気がついて反省し謝罪することは社会生活において大事なことです。けれども信心ということにおいて、自覚ということと反省ということが混乱していることが多いと思います。

反省というのは、自分が自分を否定しているわけです。しかし居眠りしそうなものが居眠りしないために膝をつねりながらしかも居眠りしているように、反省というのは徹底しないのです。反省されるのも自分、反省するのも自分だからです。自分は自分が可愛いのです。自分で自分を破るということはできないわけです。

また反省するのは私の中の悪い「部分」であって、私全体の否定ではないのです。部分否定なのです。また反省には反省して私を改善していこうという心が潜んでいます。  

絶対否定というのは反省とは違います。眠る自分は自分を目覚めさせることはできません。しかし他者、例えば後ろの人が背中をトンと叩けばハッと目が覚めます。ですから絶対否定というのは他力による否定なのです。他力による否定と言っても抽象的でわかりにくいですが、私たちの生活の中で一番身近に他からの否定を感ずるのは、私たちが怒ったときではないでしょうか。私が怒っているときそこには私を怒らせている他者がいます。怒りというのは心理学的には他者の支配(コントロール)に対する防御的反撃です。ですからそこには他者の支配、即ち他者による私の意思の否定があるわけです。しかし怒るということは相手の支配に対する防御的反撃ですから、やはりそこには支配を目指す「我」があって、他者の私に対する否定が私の自己否定への縁となっていないのです。また、他者の私への怒りは端的に私の否定です。

私は、念仏生活における自己否定の具体性を自他の怒りへの身の処し方・怒りへの態度に見ることができるのではないかと思います。善導は二河白道の譬えで火の河(瞋恚・怒り)と水の河(貪欲)を宗教生活の大きな課題としています。ここには火の河・水の河の二つがありますが、貪欲(欲求)の満たされないとき瞋恚の炎を燃やすわけですから貪欲と瞋恚は表裏一体です。そして私たちが自覚的であるのは瞋恚においてです。ついでに言えば最古の仏典といわれる『スッタニパータ』も怒りから始まっています。ですから怒りということは本当に問題にすべきことなのです。

私は、「怒り」についての重要な教えは聖徳太子の「十七条憲法」第十条だと思います。

聖徳太子「十七条憲法」第十条。

 ①忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄て 人の違(たが)うことを怒らざれ

 ②人皆心有り 心各々執(と)れること有り

 ③彼是(よ)みすれば則ち我非(あ)しみす 我是(よ)みすれば則ち我非(あ)しみす

 ④我必ずしも聖(ひじり)に非ず 彼必ずしも愚かに非ず 共に是れ凡夫(ただびと)のみ

 ⑤是(よさ)(あ)しさの理(ことわり) 詎たれ)か能く定むべき

 ⑥相共に賢く愚かなること 鐶みみがね)の端無きが如し   

 ⑦是(ここ)を以て 彼の人は瞋(いか)ると雖(いうと)も 還りて我が失(あやまち)を恐れよ

 ⑧我独り得たりと雖(いうとも 衆(もろもろ)に従いて同じく挙(おこな)

①「忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄て」。「忿」はこころのいかり、内心の怒りです。未だ顔や言葉に現れてはいないけれども、心の内に怒りが渦巻いているわけです。「瞋」はおもてのいかり、顔や言葉に怒りが発現しているのです。

 怒りは他の支配、すなわち私に対する否定に反応して他から動かされているみじめな、みっともない姿です。しかも苦しみです。他人の怒っている姿はまことに滑稽であり、面白い見ものです。しかし自分のことになると、私たちは自分の怒りをどうにもできないのです。

 「忿を絶ち瞋を棄て」、これは呼びかけです。「お前は今、怒りの感情に翻弄されているのではないか。この不快な感情に苦悩しているのではないか。その怒りに注意を集中して、その実態・実相をよくよく見よ」と呼びかけているのです。私たちを内省(私が私を知る)に導く命令形の呼びかけです。この呼びかけによって、私たちは怒りの事実を見据え、人間存在というものへの認識に導かれていくのです。

 「忿を絶ち瞋を棄て」、これは「怒らない人間になれ」と言っているのではありません。そんな道徳的・倫理的な要請ではありません。そもそも怒らない人間などいないのです。

 「忿を絶ち瞋を棄て」、怒りを縁として、ただ怒る人間存在というものを内省していけというのです。そうしてそこに図らずも怒りは超えられていくのです。

「人の違うことを怒らざれ」。人はそれぞれ個性的存在として皆違うというのです。「人が違う」、つまり他人が自分の思うとおりに動いてくれないとき、私たちは怒ります。私たちは、人は自分の思うとおりに動くべきだという貪欲のいのちを生きているのです。

 ②「人皆心有り 心各々執(と)れること有り」。「人が違う」、そのことの内実を太子はこのように言われています。人は皆、いつか・どこか・誰かの身をもった個物として、世界とのかかわり方、世界の表現の仕方が違うのです。例えば美しい花を見てきれいだと感ずる者もいれば、「この花の値段はいくらだろう」と思う者もいます。モーツァルトの音楽を聴いて「素晴らしい音楽だ」と感動する者もいれば、「退屈な音楽だ」と思う者もいるわけです。この世界との関係の仕方・世界の表現の仕方を「心」というのです。「心各々執れること有り」というのは、「われ」というものを立てて「われは世界の表現者である」と主張するのです。「執」というのは「われ」を中心とする世界ですから、世界をわがものとして、他を「われ」の支配下におこうという努力をいいます。一人ひとり何かしっかりと固執しているものがあるわけです。

③「彼是(よ)みすれば則ち我非(あ)しみす 我是(よ)みすれば則ち我非(あ)しみす」。彼は、自分をよしとするから、反対する私を非として否定する、私は自分をよしとするから反対する相手を非とする。夫がよいとすることを妻が悪いとする。妻がよいとすることを夫が悪いとする。こういう時に腹が立つ。従って人と人との関係の実相は対立関係・闘争関係です。「いや、私たちは結構うまくやっています」というのは、言わば折り合いをつけているのです。自分の影響力を保つためには時に相手のそれも認めなければならないという事情があるから、うまく調整して折り合いをつけているのです。この調整に失敗すると、本来の対立・闘争関係が露呈してくるわけです。

だから人は「人が違う」といって怒っているというのが本来的なのです。いつも怒りに満ちてぶりぶりと不平不満にあるというのが、「心各々執れること有り」という人間の当然の姿なのです。怒りとは不快の感情ですが、この不快の感情の中にいつも暮らしているということの方が自然なのです。だからすぐ腹を立てて突っかかっているのは「かわいいもんだ」と笑って見ていればいいのです。聖書をみてもイエスはよく怒っています。かえって、いつもにこにこして柔和で怒らない人間というのは腹に一物あるものとして警戒すべきです。

太子は「怒らない人間になれ」などと言っておられるのではありません。怒りにおいて人間の根源的な存在の仕方を見ようとしておられるのです。人間認識の問題です。

④「我必ずしも聖に非ず 彼必ずしも愚かに非ず 共に是れ凡夫のみ」。私はその判断において絶対的に正しいのではない。完全に道理がわかっているわけではない。彼もまた絶対的に間違っているのではないし、何の道理も知らないのではない。共に「凡夫」である。ここに太子は深々と頭を下げています。念仏の智慧の光に「我」が粉砕されて、凡夫の自己に落在されておられます。そこに彼我の対立はありません。

「彼是みすれば則ち我非しみす 我是みすれば則ち我非しみす」をいくらつついても堂々めぐりの流転があるばかりです。念仏あって頭が下げしめられてはじめて凡夫のありのままの事実に立たしめられるわけです。「本願の宗教は絶対否定の宗教である」、その具体性はここにあると思います。

その凡夫というものの規定が次の⑤⑥の二句です。

⑤「(よさ(あ)しさの理(ことわり) (たれ)か能く定むべき」 ⑥「相共に賢く愚かなること 鐶(みみがね)の端無きが如し」。

 「是非しさの理」すなわち道理というものを誰も断定することはできないと言われています。ものごとを成り立たせているのは無限の因縁です。そこからわずかに捉えることができた有限の面をもって理性が是だ非だと決めたといっても、それが行き届いた決定となることはないのです。それは取りあえずの決定です。末通りたることではありません。だから絶対的な「こうでなければならない」ということは確定できないのです。私たちは私たちを形作った全過去を知っているわけではありません。未来は全くの未知です。そして現在のことも自己の周囲の狭い範囲のことを知っているのみです。今を成り立たせている無限の因縁を知っているわけではありません。そういう意味では、私たちは無知をもって重々無尽の因縁のままに漂っているばかりです。

 「相共に賢く愚かなること 鐶の端無きが如し」。鐶はかなわです。端というものがないのです。賢は賢に極まるかと思っていたら愚であり、愚は愚に終わるかと思っていたら賢であるという意味です。「私は道理がわかっている」という賢なるものは目の前のことに賢いだけで、無限の因縁法に触れることのない愚である。小賢しいのです。目先のことだけで自他の賢愚を比べている、これは愚です。また愚なるものが愚であることは人間がそもそも愚なのですから真に近いのです。これ賢です。

 例えば相撲協会の評議員会の議長さんが「私はわかっている」とばかりに賢げに「○○は礼を失している」と言ったのが、諸方面からブーイングを受ける愚であったり、組織人として全く愚かだと言われる親方の行為がかえって相撲界の現実を明らかにする賢であったりするわけです。といって賢愚がないというのではありません。賢愚を認めたうえで、賢は愚に転ずるし、愚は賢に転ずる。固定を払うわけです。

 聖人は自らを「愚禿」と名のられ、「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおに おおそらごとのかたちなり」(11/42)と歌われました。だから凡夫の自覚とは愚の自覚です。

 次に凡夫の怒りへの態度が具体的に述べられます。

⑦「是を以て 彼の人は瞋ると雖も 還りて我が失を恐れよ」。 これは相手が私に対して怒っているのです。このとき太子は相手の怒りを全面的に承認せよと言われるのです。なぜなら、私はすべての因縁を知るものではない、知っているといっても限定的なのです。知らないことは無限です。すなわち無知なのです。だから「わが失を恐れよ」と言われます。無知ゆえに知らず、知らず犯した自分でも気づかない過失によってこの人は私に怒っているのではないかと、ただ内に還って尋ねるのです。

 私の全過失をもって相手の怒りに対するとき、彼の怒りは誤解であるとか、正しくないとか判断が入る余地はありません。だから相手が怒っているときのエチケットは、相手の怒りを全面的に聞き取ることです。弁解したり言葉を遮ったりしてはならないのです。これだけでも非常に困難なことです。

 そうして相手の怒りによって内省に帰るのです。このとき彼の怒るのも自由、私の内省も自由、共に自由です。

 田村邦夫先生は選挙運動中、応援してくれる人に酒も何も出されなかった。そうして当選はしたが、誰かが「田村のバカ」と書いたそうです。そうしたら先生は「田村の大バカ」と大の字をつけられた。田村先生は全過失の自己を投げ出して頭を下げておられたからこんなことができたわけです。

 ⑧「我独り得たりと雖も 衆に従いて同じく挙え」。

 今度は私が「独り得たり」、正しいと相手に怒りを投げつけようとする場面です。私が怒る寸前です。そのとき南無阿弥陀仏による転換があるわけです。「共に是れ凡夫のみ」。私が完全に道理を把握しているというのか。今しばらくの道理にすぎないのである。相手をそのままに任せるのです。

 だから細川先生は「会議では二度までは自分の意見を言ってもよい。それ以上は言うな」と言われました。二度以上言うと我執になるのでしょう。後は皆さんにしたがって同じく行え、と言われたのでしょう

 以上、聖徳太子の十七条憲法第十条によって怒りについて学びました。それというのも、私たちの生活における本願の絶対否定のはたらきの具体性は、私たちの怒りへの態度が一つの目安になるのではないかと思うからです。

 本願についてはまだ尋ねることがありますが、それは次回にしたいと思います。

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