2018年5月6日 講義概要
講師:赤宗正俊
今回から「四十八願」願文の学びを始めます。「四十八願」を学ぶにあたっては、対象的・学問的に研究するというような態度ではなくて、「自己とは何ぞや」と問い、かつ自己衷心の願いの声を聞く。いわゆる主体的に学ばせていただきたいと念願することです。
四十八願の表現形式
はじめに四十八願すべてに共通する表現形式について述べたいと思います。ご承知のように、四十八願は、
「設我得仏~(願われていること)~不取正覚」
という表現になっています。ただし十八願には末尾に「唯除…」という言葉がついていますが。親鸞聖人は『尊号真像銘文』(17/1)で、「設我得仏」というのは「もし私が仏になったとき」という言葉であり、「不取正覚」は「仏にはなりません」と誓われた言葉である、と言われています。ですから、四十八願は「たとえ私が仏に成ったとしても、願っていることが実現できないならば、誓って正覚を取らない(誓って仏にならない)」という表現形式をとっているわけです。
道隠師は、「設我得仏」は遥期果上(遥かに果上を期す)であり、「願」である、「不取正覚」は近励因行(近く因行に励む)であり、「誓」である、と言っています。それで四十八願を「誓願」というわけです。
ところで「不取正覚」の「正覚」とは真理に目覚めること、すなわち真理の認識です。そして「願っていることが実現しないならば、正覚を取らない」と誓われているのですから、願われていることは真理の認識として客観的なもの、必然的なものであるわけです。「設我得仏」は「かりに私が仏に成るとしても」という仮定形の表現です。これによって一応欲求(意志)という意味を表して、そしてそれを「不取正覚」の真理認識の必然性で裏打ちするわけです。「設我得仏~不取正覚」という表現は「設(たと)い…」という仮定形であるために「不取正覚」の必然性が強く響く表現なっているわけです。
一、第一願―無三悪趣の願
設我得仏 国有地獄餓鬼畜生者 不取正覚
(設い我仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生有らば、正覚を取らじ)
【口語訳】
たとえ私が仏になったとしましても、私の国に地獄や餓鬼や畜生の境界の者がいるならば、誓って正覚を取りません(誓って仏になりません)。
第一願は「無三悪趣の願」と名づけられています。天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を六道(趣)といい、天・人を善趣、修羅・畜生・餓鬼・地獄を悪趣といいますが、第一願では悪趣のうちの地獄・餓鬼・畜生を無からしめんと誓われていますから、「無三悪趣の願」と名づけられているわけです。
「三悪趣」の「悪」とは、善に対する悪という意味ではなく、にくむ、嫌悪すべきものという意味です。「趣」とは、衆生がその業にしたがっていく世界、境遇という意味です。
願意
第一願は「私の国では三悪趣を無からしめたい」と誓っています。ここに法蔵が建立しようという「国」の総括的な規定があります。「三悪趣が無い」というのは「三悪趣を超える」ということです。この「三悪趣を超える」ということについては後に述べたいと思います。
「無三悪趣の願」は『大無量寿経』の正依(『無量寿経』)・異訳・梵本、すべてにおいて第一願として誓われています。つまり、三悪趣、すなわち「救われざる者」の発見から本願が展開しているわけです。衆生を三悪趣の苦悩から解放したいというのです。一番助からないものへの大悲です。
法蔵は「讃仏偈」において師・世自在王仏を讃えて「無明・欲・怒、世尊には永く無し」と歌いました。無明・欲・怒とは貪瞋痴の三毒です。地獄・餓鬼・畜生はまた貪瞋痴ですから、第一願は、貪瞋痴を超えた師に遇った第一印象の波動からの必然的な展開である、と言うこともできると思います。
第一願の成就は、「亦地獄・餓鬼・畜生・諸難の趣無く」(1/26)とか「三途苦難の名有ること無し、但自然快楽の音のみ有り。この故にその国を名づけて安楽という」(1/34)と語られています。親鸞聖人は後者の文から次の和讃をつくられています。
三途苦難ながくとじ 但有自然快楽音
このゆえ安楽となづけたり 無極尊を帰命せよ (11/16[46])
三悪趣について
六道はインド教に由来します。インド教では六道は実体的な世界と考えられています。「我(アートマン)」は永遠に無くなることはなく、死んだら、生きていた時の業(カルマ)によって六道のどれかに生まれ変わる。これを永遠に続けるわけです。六道輪廻といいます。
しかし釈尊は、縁起の真理に目覚められて、インド教の実体的な我(アートマン)を否定します。無我が仏教です。そして六道というのも実体的な世界ではなく、自分の心の上に味わわれました。釈尊は、広くインド人にいきわたっていた六道という考えをむげに否定しないで、心の問題として包まれたわけです。
ところが釈尊がお亡くなりになりますと、インド教の考えが仏教に混入してくるわけです。さすがに無我が仏教ですから、アートマンということは言いませんが、インド教的なカルマ観の影響によってインド教の輪廻観が仏教に混入してきたわけです。
心の問題としての地獄・餓鬼・畜生を言えば、地獄は苦しい処です。そこは裁く閻魔と責める鬼と責められる罪人のみいる世界です。しかも自己を内省するものは誰もいません。目は外を向いて、自己を見ようとはしません。閻魔は他人を裁くのみ。鬼は閻魔を、罪人は閻魔と鬼の顔ばかり見ています。餓鬼はいつも「足りぬ、足りぬ、欲しい、欲しい」といって、満足ということを知りません。「ああなったら幸せ、こうなったら幸せ」と満たされるということがありません。畜生は愚かであって、自立できないものです。
この地獄・餓鬼・畜生をわが身の上に主体的にいただいてみると、地獄とは瞋恚(怒り)であり、餓鬼とは貪欲(思いどおりにしたい)であり、畜生とは愚痴(無知、智慧がない)です。(ただし宮城師は、地獄は愚痴、餓鬼は貪欲、畜生は瞋恚と言われています。)
貪欲・瞋恚・愚痴(貪瞋痴)について
地獄・餓鬼・畜生は仏教的・主体的には貪欲・瞋恚・愚痴の三毒です。では貪瞋痴とはどういうものなのか、またその相互の関係はどうなっているのか、それが明らかにされなくてはなりません。
毎田周一先生は「人間存在とは何か。貪瞋痴の一塊である」と言われます。また善導大師も「二河白道」の譬えにおいて、人間存在を水火二河で捉えています。水の河(貪欲)・火の河(瞋恚)は愚痴(無明)故に生まれ、愚痴そのものですから、善導大師は水火二河をもって貪瞋痴の一塊である人間存在を明かしているわけです。
貪瞋痴のうち私たちの身にはっきり自覚されるのは瞋恚すなわち怒りです。怒りとは心理学的には相手の支配に対する防御的反撃といわれますから、怒りにおいて私たちはやはり支配を目指して生きているわけです。怒りにおいて私たちの根源的な支配欲が姿を現しているわけです。そして怒らない人間はいないし、それどころか私たちはいつもブリブリ怒っているわけですから、すべての人間は支配欲を生きているわけです。それは、聖徳太子が十七条憲法第十条で、人はそれぞれ違うのだ、「人皆心有り、心各々執れること有り」と言われるように、人は各々その身と相応した世界を荘厳して生きる個物として世界を表現しているからです。私とは支配欲の主体なのです。それはいのちの根元的なところから出てきているのです。
支配欲としてのいのちの欲求が貪欲です。世界は無限ですから貪欲も無限です。どこまでも私の思い通りにならんことを求めます。自身の命への執着を本として、親子や異性間の執着的欲望に生きます。
ところが真理は無常ですから、獲得したものが減ったり、無くなったり、奪われたりすることがあります。この逆境において怒りがわきおこってきます。また世界には私と同じく支配欲を生きる個物がたくさんいますから、他の個物との対立・闘争が表面化したとき激しい怒りが燃え上がります。そして怒りは苦しみです。
貪欲を生きるから、貪欲が満たされなくて怒り、苦しむ。貪欲と瞋恚は裏表の関係にあります。貪欲ゆえに怒りを燃え上がらせ、苦しみ、しかも打つ手なしとは真理にくらい、智慧のない、無明、無知ということです。これを愚痴といいます。まことに人間存在を貪瞋痴の一塊と言うことができると思います。
貪瞋痴を生きる人間のつくる社会の相は対立・闘争です。たとえ今は良好な関係であっても底に対立・闘争というものを潜ませています。さるべき業縁のもよおせば、潜んでいた対立・闘争関係が露わになってきます。同じ屋根の下に暮らしている夫婦といってもこれに漏れることがないのは皆さん体験済みのことでしょう。ですから「敵の敵は味方」とか「昨日の友は今日の敵」という悲しい言葉もあるわけです。
私たちは他と対立したり争ったりしたとき、たとえ争いに勝ったとしても心が晴れません。苦悩を感じます。私たちのいのちの底には、他と融け合いたいという自他一如の願いがあるのだと思います。しかし宮城先生が「三悪趣というのは一口で言えば『間』を失ったといいますか、人と人の交わりを失うことです。…自己固執・自己主張を一歩も出ないという在り方でございます。」(『大無量寿経講義』20,P3)と言われているように、貪瞋痴を生きるということは自己固執・自己主張の殻の中に入って孤独なのです。いのちの願いに背いているのです。
だから「無三悪趣の願」というのは、人と人の交わりを回復せしめたい、自他一如を回復せしめたい、そのことを「国」という共同体で実現したいというのです。善導大師の「二河譬」も、はじめ西へ向かって歩き始めた旅人は無人空曠の沢という孤独を象徴する処にいたのです。しかし西岸に到れば「善友相見て慶楽する」というように人と出遇い、人との交わりを回復するわけです。
貪瞋痴の存在は他に対しては悪としてはたらきます。『大無量寿経』下巻の「三毒・五悪段」には貪瞋痴の三毒が五悪(殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒)として展開していく痛ましい姿が描かれています。(これは下巻に入っていただきたいと思います。)
怒りにおいて暴露されてくる、その貪瞋痴を生きる私たちは苦悩の存在です。釈尊は「あなたの教えはどういう教えですか?」と問われ、「私は苦と苦からの解放ということのみを語っています」と答えられたそうです。とするなら、貪瞋痴に苦悩している、その苦悩からの解放ということが、自覚のあるなしを問わず、すべての人間の課題であるわけです。だから本願は「無三悪趣の願」から始まっているのでしょう。
前に私は「無三悪趣」すなわち三悪趣が無いということは「三悪趣を超える」ことだと言いました。では、貪瞋痴を超えるとはどういうことでしょうか。このことは次の第二願をいただいた後、考えてみたいと思います。
二、第二願―不更悪趣の願
設我得仏 国中人天 寿終之後 復更三悪道者 不取正覚
(設い我仏を得んに、国中の人天、寿終の後、復三悪道に更(かえ)らば、正覚を取らじ)
【口語訳】
たとえ私が仏になったとしましても、私の国の人々や神々がいのち終わって復三悪道に更(かえ)るならば、誓って正覚を取りません(仏になりません)。
第二願は「不更(きょう)悪趣の願」と名づけられています。
言葉の意味
第二願では「国中の人天が寿終の後にまた地獄・餓鬼・畜生の三悪趣に更(かえ)らない」ということが誓われています。しかしこのことの意味は「国中の人天」「寿終の後」「不更」という言葉の意味がはっきりしなければ願意は明確になりません。はじめにこれらの言葉の意味を押さえておきたいと思います。
まず「国中の人天」とは、浄土の中の人々や神々ということです。第二願では出てきませんが、他の願には声聞や菩薩の名もあります。ここで問題なのは、浄土に菩薩がいるというのは当然ですが、果たして声聞や天や人もいるのかということです。
このことに関して『無量寿経』は「彼の仏の国土は、…そのもろもろの声聞・菩薩・天・人、智慧高明にして神通洞達せり。みな同じく一類にして形異状無し。但余方に因順するが故に天人の名有り」(1/34)と言っています。つまり、浄土はそこにいる声聞や菩薩や神や人はすぐれた智慧をもち、神通を身につけて自在である。みな同じ一つのものであって互いに姿において違うところはない。ただ彼らのもとの国ではそのように呼ばれていたので神とか人とかいうまでである、と言うのです。親鸞聖人は右の経文を重要視されて証巻(12/119)に引用されています。
「国中の人天」についてはさらに考えてみたいことがあります。第二願から第十一願までは「国中の人天」に対する願いになっているのですが、それを文面通り「浄土の人天に対する願い」ということで済ましてしまえば、現実を生きている私たちと何のかかわりがあるのかということになってしまいます。素朴に、浄土にいったら国中の人天に願われているようなことが実現するのだと考えることもできます。しかしその場合、私たちの現実の身は第三願の「悉皆金色」でもありませんし、第四願の「無有好醜」でもありませんし、六神通もありませんから、そのことの実現は死んで浄土にいってからのことにするしかないわけです。
「国中の人天」ということについて第十一願をみてみますと、願文は、
設い我仏を得んに、国中の人天、定聚に住し、必ず滅度に至らずば正覚を取らじ。
です。そして第十一願の成就文は、
それ衆生有りて彼の国に生まるれば、皆悉く正定の聚に住す…(坂東本のよみ)
となっています。この成就文を親鸞聖人は「それ衆生ありて、彼の国にうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す」(『一念多念証文』19/2)と領解されておられます。つまり聖人は、「彼の国にうまれんとするもの」すなわち願生の人、信心の人が現生(現実人生)において正定聚(必ず仏となる位)に住するといただかれているのです。また和讃でも、「安楽国をねがうひと、正定聚にこそ住すなれ」(11/15[24])と歌われていますが、これも同じことを言っています。そうすると、正定聚に住するのは願生の人、すなわち信心を獲た人といえるわけですから、願文の「国中の人天」とは信心の人ということになるわけです。では、「国中の人天」=「信心の人」といってよいのでしょうか。
私は、そこは機の分限というものをはっきりさせなくてはならないと思います。聖人は「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり」(証巻12/118)と言っておられます。つまり、「往相回向の心行を獲れば」すなわち如来回向の信心を獲た人は、「大乗正定聚の数に入る」すなわち正定聚という浄土の人天の功徳をいただくのです。しかし「国中の人天」=「信心の人」と言ってはいけないのです。そこには「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌」という分限が厳然としてあります。「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌」が「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌」という自覚において、すなわち信心において浄土の人天の功徳をいただくのです。
次に「寿終の後」ですが、「寿終の後」とは命が終わった後ということではありません。それは、もし国中の人天の命が終わるということがあるならば、第十五願の「国中の人天の寿命は無限である」という願いと矛盾するからです。
「寿終の後」とは、浄土を去って菩薩として他方仏国にいくということなのです。どうしてそういうことが言えるかというと、異訳の『平等覚経』は「我が国中の人民、我が国に来生する者有らんに、我が国より去りて」といい、『大阿弥陀経』は「我が国中の諸菩薩をして他方仏国に到りて生ぜんと欲せしめば」といっているからです。
そして、浄土を去って菩薩として他方仏国にいくということは、三悪趣(貪瞋痴の世界)に帰るということです。あるいは無仏の国に行くということです。
ではなぜ三悪趣(貪瞋痴の世界)に帰るのか。あるいは無仏の国に行くのか。それはそこにおいて普賢菩薩行をなさんがためです。どうしてそのように言えるかというと、第十五願は国中の人天の寿命は無限であることを願っていますが、例外規定として「除其本願…」すなわちその人の本願によって命の長短を自在にするものはその限りではない、と言っているのです。そして実はその除くといっていることこそが願われていることなのです。だから第二願で「寿終の後」といっている、浄土を去って他方の仏国にいくということは、菩薩の本願なのです。ではその本願の内容は何なのでしょうか。「除其本願…」という形式をもつ願文はもう一つあって、それは二十二願です。そこに「その本願」の内容が明かされています。それは遊諸仏国・供養諸仏・開化衆生の普賢菩薩行です。
まとめてみますと、「寿終の後」とは、浄土を去って菩薩として他方仏国にいくということであり、三悪趣(貪瞋痴の世界)に帰るということ、無仏の国に行くということである。三悪趣に帰って菩薩として還相のはたらきをするわけです。
さらに「不更悪趣」の「更」の意味ですが、これを「かえる」とよんでいますが、「帰る」の意味ではありません。「あらたまる、かわる」という意味です。更改、変更といいますね。また『如来会』は「三悪趣に堕すること有らば…正覚を取らじ」といっています。だから「不更悪趣」とは、悪趣にあらためてかわらない、悪趣に堕さないという意味になります。
願意
それで、第二願で願われていることは、もう二度と三悪趣にもどることはないということではないのです。三悪趣に帰って、三悪趣にあらたまりかわることがない。三悪趣に帰って三悪趣に堕さないのです。逆に言えば、三悪趣に帰ることができるということなのです。それは三悪趣に帰って菩薩として還相のはたらきをすることが願われているのです。
そのことは第二願の成就文を見ればうなづけます。第二願の成就文は二十二願の成就文のすぐ後に出てくるのですが、次のような文です。
彼の菩薩、乃至成仏まで悪趣に更(かえ)らず、神通自在にして常に宿命を識る。
他方五濁悪世に生じ、示現して彼に同じ、我が国の如くならんをば除く。(1/46)
【口語訳】
かの菩薩はついに仏となるまで悪趣に堕することはない。神通力において自在であり、常に宿命を知っている。しかし他方の五濁悪世に生まれて、世間の人たちと同じ生活をして、私(釈尊)がここではたらいているように衆生済度をするものはこの限りではない。
「四十八願」はスタートの第一、第二願からして自利・利他の大乗なのです。浄土は願心荘厳の国であるわけですから、浄土の人民に生まれるということは願心に目覚めるということなのです。そして、願心に目覚めれば、その願心に生きていくわけです。
以上が第一願・第二願についてこの度私が学んだことです。
三悪趣は仏教的・主体的には「貪欲・瞋恚・愚痴」でした。そして第一願の無三悪趣とは「貪瞋痴を超える」ということでした。さらに第二願をくぐれば、それは、「貪瞋痴そのままに貪瞋痴を超える。それすなわち慈悲である。」ということになります。これは一体どういうことでしょうか。次回はこのことから尋ねてみたいと思います。