安楽に生ずる
第二の釈迦とうたわれ、龍樹菩薩と仰がれるこの人も、歓喜地を証し安楽に生ずるというその道はたった一つしかなかった。お粗末な私と頭を下げぬいて、教えを聞きぬいた。そこに安楽に生ずるということが成り立つのである。第二の釈迦とうたわれ、八宗の祖師とうたわれるこの人も、頭を下げて念仏申すという道しかなかった。大事なことは諸有衆生と目がさめるということです。
龍樹も天親も法然も親鸞も、安楽国に生まれんと願ずるというか、大般涅槃を超証するというか、そういう世界に出る者は悉く、自己に目がさめてゆくしかないのである。われわれはそこの所に深い感銘をおぼえる。
われわれのような者が頭を下げてゆくということは当然のことである。それでも、なかなか頭が下がらんのでありますが、大聖龍樹菩薩、天親菩薩、そのようなインドを代表するような大インテリ、ものすごい大学者、ものすごい存在が、頭を下げていきなさったのである。それを安楽に生ずるというのである。他に道はないのである。
そういう道にわれわれも立たされてゆくのである。大聖龍樹菩薩は、
無量光明慧 身は真金の山の如し
我今身口意をもって
合掌し稽首し礼したてまつる
と、十二礼を説いて、「故我頂礼弥陀尊」と弥陀尊に頭を下げていきなさった。諸有衆生にめざめていきなさったのだ。道はこれだけなのだ。この道が万人に通ずる道なのである。
弥陀の世界に生まれる、安楽に生ずる、大般涅槃を超証するという道は、たった一つ、諸有衆生に徹することである。こういうことをわれわれは知らされることである。
細川巖講述『正信偈讃仰』(七) 龍樹章 207~209ページ
コメント