
仏法を主とす
今日の日本人われらは「臣」という一字を失ってしまった。「臣」は「臣」でも煩悩の臣となって、煩悩に仕え、煩悩にわが身を捧げて、それに尽くし、それに追い回されている。しかし、そこには満足がなく、感謝がなく、末徹る喜びがない。これでよいのであろうか。人間は本当に尽くすべき主、仕えるべき主体を持たねばならないのではあるまいか。
問題はその主(あるじ)である。主君である。その主いかんでその人の人生は決定されると言ってよいであろう。仏法を主とし、仏を法の王としてわが身を尽くし、一生を臣として仕える身となる。そこに人間として生まれた最上の喜びがあり、道がある。
細川巖講述『蓮如上人 御一代記聞書讃仰(続篇二)』50ページより