「問い」は「聞」からおこる
わが子が重い病気になったら、親はよい医者はいないかと人にも尋ね回り、医者に診断してもらったら、結果はどうか、今からどうしたらよいかをけんめいに尋ねるであろう。わが子の進学・就職・結婚などすべてそうである。
けれども自分自身の信心の問題になると全く違う。なかなか尋ねようとしない。
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人に問うには、まず問う「問い」を持つことが第一であり、次に問う意欲が大切である。「問い」は「聞」からおこる。教えを聞き、書物を読む、そして考える、実行する。この聞・思・修の中から「問い」が生まれる。
聞いたこと、読んだことを考えることによって、わかる所とわからない所がはっきりする。このわからない所をさらに考える。この聞思から問いが生まれ出る。したがって問いがない人は、何も聞かず、考えない人であるといえよう。たとい聞いても考えないで聞きっぱなしにしているのである。
また、聞いて考えて実行する、その実行の段階で、思うように実行が進まない。そこに問いが生まれることがある。このように聞・思・修が問いの生まれる母胎である。
「我はよく心得たり」という憍慢な思いがあると、聞かず、また考えない。したがって「問い」がない。
細川巖著『蓮如上人 御一代記聞書讃仰(続篇二)』76・77ページより